特集

2007.10.04 Special Issue No.16

ベナンの財産 ~民主化が生んだ、自らの道を切り開く力~ 2

すべては民主化のために

もう限界! でも暴力には反対

貧しく、厳しい監視によって抑圧された生活。1980年代後半になると人々の不満がついに限界を迎えます。衣食住や子どもの養育費など、生活に関わる具体的な問題をきっかけに、学生、教員、公務員、人権団体、労働組合、教会関係者などが、禁止されている集会やデモ行進を国のあちこちで始めます。この運動は国中に広がり、ついには政府が抑えられない程にまで拡大し、今にも暴動が起こるのではないかと緊張感が高まりました。

「このままだと内戦になってしまう」と考えた人たちが、人権団体を率いる弁護士のドス氏を中心に、話し合いで国のあり方を考える「国民会議」の開催を政府に要求。ケレク大統領は、1989年12月に、マルクス・レーニン主義の放棄と、国民会議の開催を認める声明を発表しました。国民会議とは、農民、公務員、教会、軍、政府の関係者など、あらゆる層の人々の代表488名が、それぞれの立場からこれまでのベナンの政治を振り返るとともに、これからの国のあり方を話し合った会議です。

会議は2ヵ月後の1990年2月19日から10日間にわたって行われました。議長に選ばれた教会代表のドゥ・スーザ卿は、人々の不満が大統領と政府関係者を排除しようとする動きや、暴動に発展しないよう、繰り返し呼びかけを行いました。ありとあらゆる対立を経験してきたベナンの人たちにとって、これ以上の争いはもうこりごりだったのです。


市民が話し合いをもった画期的な機会、“国民会議”

ドゥ・スーザ卿の呼びかけもあって、会議は穏やかに進行。参加したすべての人々に平等な時間が与えられ、異なる立場からの意見を認め合いました。長年、言論の自由から遠ざかっていたベナンの人たちにとって、「話し合いによって何かを決める」ということ自体が画期的なことでした。また、会議の様子は全てテレビ、ラジオで生放送されたため、会議に参加していない一般の人たちも、「市民が参加した国民会議によって民主化を手に入れた」という思いを強く持っているといいます。

国民会議は大統領に代わって主権を宣言。今までの憲法を廃止し、暫定的な立法機関と、民主化へ移行するための政府を創設しました。


すべては民主化のために、「罪を憎んで、人を憎まず」

民主化への移行が混乱なく行われるかどうかは、独裁者が自らの持つ権力をすんなりと手放すかに左右されます。ふつう、独裁者は権力をなかなか手放したがりません。なぜなら独裁者にとって権力とは、人々の不満の矛先から身を守るための盾のようなものだからです。

そこで国民会議では、ケレク大統領個人の過去の責任は問わないという法律を定めました。法律という新しい盾を用意することで、大統領が権力を手放せるように促したのです。

権力が独裁者の手から離れたことで民主化は順調に進み、ベナンは同年12月に行われた国民投票によって新しい憲法を採択して、複数政党制を導入。翌年2月から3月にかけて行われた大統領選挙で、元世界銀行理事のソグロ氏がケレク元大統領を破り、民主政府の初代大統領に就任しました。それ以来ベナンでは、2007年までの間に4回の大統領選挙が行われ、大きな混乱もなく政権交代が果たされています。


民主化成功の秘訣は、市民の目

ベナンの成功をきっかけに、ガボン、コートジボアール、マリ、カメルーンなどの国々が、民主化と複数政党制の導入を試みました。中にはベナンと同じように、国民会議を通じて民主化を進めた国も少なくありません。それにも関わらずベナンだけが「民主化のお手本」と呼ばれているのには理由があります。

まずは、ベナンでは政権の交代が起こりえる選挙で、決められたルールが守られていること。形式的に民主化が行われた他のアフリカ各国では、選挙が近づくごとに憲法の条文や法律を変えて大統領の任期を延ばし、政権の交代が起こらないようにする行動が見られます。

また、市民が国のあり方を考える「国民会議」を通じてボトムアップの民主化が行われ、人々が「自分たち自身が民主主義の担い手である」という意識を持っていることも挙げられます。人々が主体的に民主主義を守る意識を持つことは、国の中によい緊張感を生み、不正の防止に繋がります。


民主化によって、貧しい人も含めた幅広い人の声が国のあり方に反映され、必要とされる支援が明確になり、必要とされる人に届くようになる。それと同時に、自らが主体的に物事を決めるという姿勢は、自立に対する姿勢の変化を生みます。

このような国のあり方が続けば、支援を足がかりとした、地域や国の発展が今後も見込めることでしょう。