特集

2005.05.01 Special Issue No.8

”黒人初の共和国ハイチ”~独立がもたらしたもの、そして未来3~

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“スラム街の友人たち” 佐藤文則氏 講演(抜粋)


ハイチの貧困の状況を象徴する場所 ―シテ・ソレイユ

私が初めてハイチを訪れたのは1988年9月16日、その翌日にクーデターが勃発しました。その当時からシテ・ソレイユは、ハイチの貧困の状況を象徴する場所として、海外のメディアに大きく取り上げられていました。

シテ・ソレイユは1960年代、デュヴァリエ独裁政権時代に、埋立地、言い換えればゴミ捨て場に、低所得者用の住宅を建設したのが始まりと言われています。その当時、ポルトー・プランスで一番大きなスラム街は“ラ・サリーン”で、市の中心から港沿いに広がっていたそうです。

1970年代、アメリカの援助で行われた産業振興政策の港湾拡張や道路建設のために、ラ・サリーンから立ち退きさせられた人々がシテ・ソレイユに移住しました。それと、地方の農民がポルトー・プランスに仕事を探しに来て、移り住むようにもなりました。人口増加による土地不足と環境破壊による干ばつなどの影響で農民として生活するのが難しくなったからです。

ポルトー・プランスの人口は、1950年代に約15万人でしたが、現在は200万人に。シテ・ソレイユの人口は1988年に18万~20万人と言われていましたが、現在は30万人に増えました。

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写真/佐藤文則


長屋のような、人間づきあいがあるボストン地区

1988年頃、シテ・ソレイユでは「泥棒が多いから注意しろ」と言われるくらいで、けっして危険な場所ではありませんでした。私がよく行くのはシテ・ソレイユのボストンという地区です。HFWが活動するボワヌフ地区の南にある区画です。シテ・ソレイユは、たくさんの地区に分かれており、人々は別称で呼んでいます。ボストン地区は、ハイチ人が多く住んでいるアメリカのボストン市から付けたものです。ちなみに隣の地区はブルックリンと呼ばれ、ボストンからブルックリンへと流れるどぶ川には、自動車のフレームの部分を改造した小さな橋がかかっていて、人々はブルックリン・ブリッジ(橋)と呼んでいました。

シテ・ソレイユを訪れる外国人ジャーナリストやNGOは多いですが、東洋人はかなりめずらしかったのでしょう。ボストン地区に入ると、とても好奇な目で見られたことを覚えています。ハイチ人独特というか、大きな目で視線をそらさずに、じっと見つめるのです。初めてハイチを訪れた人にはかなり強烈な視線です。私も、かなり緊張していたと思います。

ガイドのウィリーという名のボストン地区に住む青年に連れられ、彼の友だちが集まる一角に行きました。そこで、人々から暖かく迎えられてからは、時間があれば訪れるようになりました。

とくに親しくなったのは、露天食堂を経営する女性エヴリンと夫のジャン・クロードの一家です。彼らは先ほど述べたラ・サリーンから強制的に立ち退きを迫られて、シテ・ソレイユに移り住みました。一家(当時は子ども3人の5人家族)の生計は食堂に支えられていました。夫のジャン・クロードは、その頃は無職。現在でも無職です。

訪れるたびに、エヴリンの食堂で食事をしたり、家に呼ばれていました。家は粗末で、錆付いたトタン屋根から雨漏りもします。裸同然で遊んでいる子どもたち、一日一食の食事、水道やトイレもあまりない不衛生な環境です。最初は、そういう部分ばかりが目について驚かされました。しかし、徐々に日本でいえば長屋のような、近隣同士で助け合う密な人間関係があることがわかりました。最初にシテ・ソレイユに訪れた時は、人々の貧しさよりも、人間的な暖かさが印象に残りました。

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写真/佐藤文則

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写真/佐藤文則

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写真/佐藤文則


5人の友だちが、わずか2年の間に亡くなる

しかし、1990年11月に行われたハイチ初の民主的大統領選挙の取材で訪れたときのこと。わずか2年間で、ボストン地区の5人の友だちが、亡くなっていました。病死がほとんどですが、日本であればおそらく治療可能な病気(結核など)だったと思います。また、一人は民主化運動に関わっていました。ある日警察に連行され、それ以来行方不明になってしまいました。これらのことから、短期間ではわからない、シテ・ソレイユやハイチの過酷な精神的、政治的、経済的環境を実感させられたのです。


ギャング少年には将来の希望が必要

私が初めて訪れてから現在までにシテ・ソレイユを取り巻く環境は大きく変わりました。一つは物価の上昇です。1988年には、炊きこみ御飯は3グールド(ハイチ通貨)でした。1ドルが7~8グールドでしたから、私は一皿40~50セントで食べていました。しかし、今では50グールドもします。今の交換レートは1ドルが37グールド。一皿1ドル20~30セントになります。つまり、私には3倍に上がっただけですが、シテ・ソレイユの人には10倍以上の上昇です。失業者は多く、たとえ仕事があっても賃金はあがらない。グールドで生活する人々にとっては大変なことです。

さらに大きな変化は、治安の悪化です。治安悪化の原因の一つは、1990年の大統領選挙を機に、シテ・ソレイユが急速に政治上の要所になったからです。人々はアリスティドを支持。アリスティドの当選は彼らに大きな希望を与えましたが、1991年9月アリスティド大統領は軍と一部富裕層によるクーデターによって失脚。その後、軍事政権の時代が4年間続きました。その間、アリスティド支持者が多いシテ・ソレイユは弾圧のターゲットになりました。

そして、さらに治安が悪化したのは1998年頃からです。ギャングと呼ばれる集団がシテ・ソレイユ内でいくつも結成され、互いに抗争を繰り返すようになりました。現在、彼らは「シメール(怪物)」と呼ばれ、アリスティド派の民兵として説明されますが、彼らの多くは若者です。仕事もなく将来への希望もない若者たちが銃を手にしたらどうなるか、想像できると思います。

先月ハイチではアリスティド派支持者と警察の間で、騒乱が起こりました。シメール狩りと称し、警察によって100人以上が犠牲になったといわれます。シテ・ソレイユでも多くの人々が殺されたと聞いています。暫定政府は力のみでギャングを押さえつけるのではなく、彼らが将来への希望を持てるような政策を打ち出すことが、一番の解決方法だと思います。